マンドリニスト内藤

内藤 政武
(ないとう まさたけ/学習院長)
(昭35政経)

 マンドリニスト内藤のことは、殆どの方は御存じあるまい。マンドリンとの付き合いは学習院中等科3年の夏休みからである。それまではNHKの第二放送で放送されていたクラシック音楽を聴きあさり、ベートーヴェンの音楽はほとんど覚えてしまい、ショパン、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームスの曲を学校から帰ると勉強そっちのけでラジオにしがみついていた。見かねた母の作戦だったのだろうがマンドリンを習ってみないかと誘われたのだった。二つ返事で早速渋谷宮益坂の楽器店でマンドリンを購入した。楽器店のオーナーに先生を紹介してもらい入門の手続きをした。比留間絹子先生との出会いの始まりである。
 先生は独身のこわいおばさま風であった。が私の学校が学習院とわかると途端に態度が優しくなった。後でわかったことであるが、絹子先生の父上は比留間賢八と申され、明治10年代の音楽取調掛(現在の東京芸大)を卒業して米国・欧州に留学して、チェロを学び、マンドリンを初めて日本に持ち帰って、普及させた方で、明治・大正時代のマンドリンの弟子には、白樺派の里見弴、画家の藤田嗣治、富本憲吉、徳川義親、萩原朔太郎、松平康昌、高崎正風、三島通陽など学習院学生を始めとする数百名の錚々たる弟子がいたのである。それが絹子先生には誇りであったのであろう。学習院中等科の生徒には急にやさしくなったらしいことがわかったのである。比留間賢八先生のチェロの弟子に、桐朋学園創立者の名指揮者齋藤秀雄もいた。現在では齋藤秀雄をご存じの方も少なくなったが、毎年夏に長野県松本で開催されるサイトウ・キネン・フェスティバルの指揮者小澤征爾の先生である。当時の大指揮者齋藤秀雄は比留間マンドリンの身内みたいな存在であった。
 さて優しくなった絹子先生の特訓が始まった。練習は厳しい。マンドリンはオデル教則本と言うのがあって、1巻から4巻迄順調に進んだが、入門三ヶ月たった中等科3年の11月になった時、先生から12月に研修音楽会を開きますから参加しなさいと命令が下ったのである。初心者4人で合奏演奏をするのである。場所は有楽町読売ホールである。現在ビッグカメラの場所である。実は学校の方には、友人にも誰にもマンドリンのマの字も喋っていない。知っているのは親兄弟と親しい親戚だけ。中等科生としてもマンドリンのイメージが演歌のような雰囲気にとられるのが嫌で、皆には黙っていたのである。しかし実際はベートーヴェンにもマンドリンソナタの作品もあり、レヴェルの高いクラシック音楽なのである。しかしもう一つ自信がなくて、マンドリニスト内藤は内輪の家族だけの存在であった。
 読売ホールでのデヴユー演奏会は、比留間先生の大勢の弟子のお陰で、観客は満員で、私の演奏を聴きに来てくれた家族は4人であるにも関わらず、大成功、大満足の初舞台であった。
 高等科へ進学すると、運動部に入りたくなってホッケー部に入部した。この三年間は放課後はホッケー、夜はマンドリンの練習と余念がなかった。学習院ホッケー部は部員難に悩まされて、関東リーグの出場選手を確保するのに苦労をしたが、三年で主将、インターハイ出場、東西対抗戦の関東代表選手に選抜された。マンドリンの上達もすこぶる良好で、オデル教則本も二巻、三巻、四巻と進んで、他の門下生より上達が早いと先生からも褒められた。マンドリンは独奏楽器であると同時に、オーケストラ・合奏で楽しむ楽器である。当時有名であったのは古賀政男率いる明治大学マンドリンクラブ、服部正率いる慶應大学マンドリンクラブの二つの団体が有名であった。どちらも100名以上の大編成で活躍していた。普通のオーケストラと同じように、第一マンドリン、第二マンドリン、マンドラ(低音部のヴィオラと同じ)マンドチェロ、ギター、マンドローネ、の楽器で演奏する。明治、慶應のマンドリンクラブから歴代のコンサートマスターは比留間絹子先生の弟子になっていた。高等科生であった私はそういう慶應大学、明治大学の先輩と同格扱いで、武ちゃん武ちゃんと可愛がられたのである。このマンドリンの付き合いは現在でも続いている。地方の演奏旅行にも各所を訪れた。当時6歳くらいであった小鳩クルミを帯同して長野県の各所を演奏してまわったこともある。今思い出しても岩手、宮城、長野、静岡、愛知、岐阜、大坂、京都、広島、岡山、愛媛、福岡、熊本、佐賀と全国を演奏して廻ったものである。今思い返すと、ホッケー競技にも出場していたのであるから、日程調整をどうしたのか、不思議である。どこの地方の演奏会場でも絹子先生のスポンサーがいるので会場は満員であった。
 このような中で、私は暗譜の内藤さん、初見の内藤さんといわれていた。楽譜をすぐ覚えるので、合奏の時も譜面より指揮者の棒を見て演奏したし、初めて演奏する曲も譜面を渡されるとすぐ演奏してしまうので初見の内藤と言われて、先生から重宝がられたのである。なぜ重宝がられたかと言えば、そのころ先生のところには多くの放送局、レコード会社、映画会社、テレビが始まってからはテレビ局から演奏の依頼が沢山来ていて、其の割り振りで先生は苦労されていた。初めて渡される譜面をすぐ演奏できる私は先生からの指名が数多く入ったのである。
 明日4時にNHKの1スタへ行って、とか東映の大泉に2時に行ってとか先生から連絡がはいる。ある時渋谷の法村・友井バレー団に集合命令があって行ったところ、バレー団のダンサーに合わせてマンドリンを弾くことであったが、これは3カ月後に大手町のサンケイホールでオペレッタ「ボッカチオ」の一週間公演の第1回打ち合わせであった。主役は当時浅草オペラで有名な田谷力蔵であった。三ヶ月の練習の結果、無事大成功で公演を終わったが、ローマの衣裳を身につけての舞台は今から思えば一生の思い出であった。
絹子先生のマンドリン、齋藤秀雄指揮でマンドリン協奏曲の演奏会の練習では感激するほどびっくりしたのである。秋の演奏会のために、夏休みから練習が始まった。齋藤先生の練習は聞きしに勝る壮烈な練習であった。第二マンドリンの後列から順番に弾いて何回もダメ出しでやりなおさせる。容赦なく厳しく、出来るまで。私は必死で指揮者の目を見てこれに応えた。いつも私のところは一回で無事通過した。指揮者によって、こんなに緊張した良い音が出て名演奏が出来るのか、不思議なくらいに大発見であった。齋藤秀雄の薫陶を受けた指揮者小澤征爾が名指揮者になったのはこれで理解出来るのである。
 もう一つの思い出は、絹子先生から「明日新橋のコロンビア1スタに行って」、と言われてスタジオに入ったが、私の席の隣に立っていたのは、美空ひばりであった。奥の指揮者の席には、作曲家の米山正夫が座っていた。美空ひばりは体調が悪いらしくてガラガラ咳をして、大理石の床に唾を吐いている。この頃私は歌謡曲を軽蔑していたので、しかめっ面をして、譜面通りに弾いていた。さすが美空ひばりは咳をしながら、なんとかこなしながらOKが出て終了したが、私は此の時、何の感動もなく、事務的に報酬をもらって帰って来た。「長崎の蝶々さん」と言う歌で、同名の映画の主題歌であった。この後商店街での音楽、パチンコ屋での音楽にこの曲がかかると、コロンビアスタジオの事を思い出したが、さ程の思いは起こさなかった。ところが何十年も経過して、美空ひばりの病状が良くないと伝わって、急に僕は昔この音楽の伴奏に関わった事を誇りに思うようになってしまった。あわてて、NHKライヴラリーに行ってテープをもらってきたのである。大歌手のレコーデイングに関わった事を、急に情けなくも反転して、軽蔑から誇りに思うように切り替わってしまったのである。
 ほかにも数々の演奏に関わったが、オーケストラを伴奏に従えて2台のマンドリンのための協奏曲を、当時慶應大学マンドリンクラブのコンサートマスターの佐々木勝雄さんと二人で競演したことも思い出の一つである。同時に大学ホッケー部も練習が忙しくなり、絹子先生から、これ以上ホッケーを続けると指の関節が太くなって、マンドリンの演奏に差し支える。マンドリンかホッケーかどちらを取るか決めなさいと決断を迫られたのである。熟慮に熟慮を重ねて、結論としてホッケーを選んで今日に至っているのである。マンドリニスト内藤は学習院中等科生から大学生までの6年間くらい、学習院の友人にも知られずに、満開の花を咲かせたにもかかわらず、散っていったのである。

【医歯薬桜友会会報・2018年第25号より転載させて頂きました】