わが青春時代~学習院6年間の思い出~
西山 緑
(にしやま みどり/獨協医科大学地域医療教育センター・教授)
(昭59修・獨協医科大学)
はじめに
私は、昭和53年に学習院大学文学部哲学科に入学し、卒業後、同大学人文科学研究科博士前期(修士)課程に進み、昭和59年に修了するまで、6年間学習院大学に在籍していました。その後、27歳の時に獨協医科大学医学部に入学し33歳で医師になり、臨床研修医を経て、35歳からおよそ22年間獨協医科大学で教育と研究に従事してきました。昨年、その業績が認められ、おかげさまで地域医療教育センターの教授に就任することができました。現在は、高齢者の介護予防中心の地域医療に関する教育と研究、および医学生の人間形成を主眼とするプロフェッショナリズム教育を担当しています。プロフェッショナリズムとは、起源を古代ギリシアの医師ヒポクラテスに遡ることができる、いわゆる医の倫理教育です。日本の武士道や中国の仁術に起源を求める人もいますが、西洋医学の源流は、やはり古代ギリシアです。学習院時代には古典ギリシア語も学んでいましたので、入学した獨協医科大学の学生談話室に飾ってある「ヒポクラテスの誓い」を見たときは、「ここに来たのも運命か」と感無量だったことを覚えています。「OPKOΣ」は、ギリシア語で「誓い」で、医師の倫理・任務についてのギリシアの神々への宣誓文です。私が学習院大学の大学院に在学中の昭和58年に獨協医科大学第5期卒業生が卒業記念に寄贈したもので現在も学生談話室の壁にそのまま残っています。ちなみに私の兄はこの第5期卒業生ですが、自分たちが贈ったものだという認識は全くないそうです。そして、不思議な縁で、今、私は、医学生たちに「ヒポクラテスの誓い」を教えています。今の私の源流も学習院時代に遡ることができるのです。
学生放送局とともに
大学時代の私をバリバリの哲学少女とイメージするかもしれませんが、実は、違っていました。当時私は、今や壊されてなくなってしまった「本部中央教室 通称:ピラミッド校舎(以下ピラ校)」の裏に部室があった学生放送局(以下GSRS)の一員でした。学生放送局は、学生相談室、大学新聞社、輔仁会雑誌とともに独立4団体の一角をなすサークルです。私は制作課アナウンサー部に所属して、大学内の定期放送やラジオドラマの制作を担当していました。軽快なBGMとともに始まる「G・S・R・S」のコールの声を覚えていますか。たぶん覚えている人は少ないとは思いますが、本気の本気で大学内のニュースを放送していました。当時、女性アナの担当は、「キャンパスにひろう」というコーナーです。「きらきらと舞い落ちる銀杏がキャンパスを金色に染めるころ、ギターアンサンブルのコンサートが行われました」等、報道部が作成した大学内のイベントの原稿を読んでいました。文化会でありながら、とてもハードなサークルで、「いつやめようかな」と思いつつも大学3年の11月の大学祭終了まで活動を続けることとなりました。引退まで所属しないと「ひとつぼ会(GSRSのOB会)」の一員になれませんから、3年間、頑張ってやりぬいたことは今となっては私の宝であり、現在の私の信条である「最後まで投げ出さないこと」につながっていきます。右上の写真は、春の沼津合宿の集合写真です。後列左から3人目が大学3年の私です。学習院沼津遊泳場で毎年5月に行われるもので、新入生にとっては最初に味わう試練の場です。この写真の次には、地獄が待っているのです。前列の1年生を後列の先輩が後ろから突き飛ばして、1年生が膝小僧をすりむくのが恒例行事でした。この合宿で、ちやほやされていた新入生歓迎(新歓)時代が終了するのです。「いい気になって有頂天でいると最後にしっぺ返しがくる」という教訓を得ることになるのです。
マルクーゼと卒業論文
さて、大学3年の大学祭終了後にGSRSを引退した私は、マスコミ関係の就職活動を開始しますが、良い結果はなかなか得られず、進路も決められないでいました。文学部哲学科ですので、当然、4年次には卒業論文を書かなければなりません。当時ゼミでお世話になっていた学習院大学教授の浅輪幸夫先生から、マルクーゼ著「エロス的文明」をテーマに勧められました。そこで大学4年の夏休みに英語の原文をまるまるすべて日本語に訳しノートに書き綴りました。「エロス」という表題から勘違いされる人も多いかと思いますが、精神科医でもあるフロイトの「エロス(生の衝動)とタナトス(死の衝動)」(ギリシア神話から命名)から文明論を論じているもので、和文題名はエロス的文明ですが、原題は、“Eros and civilization”で抑圧された社会である文明からの人間解放について論じたものでした。マルクーゼをきっかけに、フロイトの著書はほとんどすべて読み漁りました。そのため、就職活動はやめて、卒論に没頭することとなりました。主査は、パース研究などの現代哲学専門の浅輪幸夫先生(ゼミの合宿やお好み焼き屋での打ち上げでもいつもタバコを手に寡黙で世間を超越していました)で、副査はギリシア神話や聖書の世界を専門とする北嶋深雪先生(お料理上手で手料理を自宅でごちそうになったこともありますが、とにかく優秀な女性教授の鏡です)、比較文化論で宗教と芸術を哲学的に考察される美学の加藤泰義先生(紳士的でシルバーグレイの長髪が素敵な芸術家タイプでした)という最強のメンバーの指導の下、提出期限前には卒論を仕上げることができました。右上の写真は、卒論の中間発表時にキャンパス内で写真撮影したものです。撮影スポットである白い木造の北別館前でモデルのように気取って佇んでいます。私の卒論は審査の結果、卒業論文で80点以上(優)を獲得し推薦で大学院に合格することができました。
「群馬に生きる」とともに
大学院への進学が決まったものの、両親が地元の群馬県前橋市に帰ってくることを切望し、コネを駆使して群馬テレビ(以下GTV)の「群馬に生きる」の司会アシスタントの仕事を決めてしまいました。もともと、アナウンサー志望でしたので、「やってみたい」という気持ちもあり、大学院生とアナウンサーという二足の草鞋を履くことになります。
GTV「群馬に生きる」は毎週月曜日8時から8時45分まで放送される群馬県教育委員会提供の番組で県内の自然や文化を紹介する記録映画と15分ばかりの群馬県内の住民活動を紹介する番組でした。時々、対談・座談会などで45分間フル出演することもありました。左上の写真は、上毛新聞の「ぐんまのお嬢さん」というコーナーで紹介されたものです。
左中の写真は、初出演の番宣です。当時群馬県内で最も人口の少なった中里村(現在は万場町と合併)で地元の中学生が河原でゴミひろいをしているところを紹介しました。とても地味な番組です。オープニングでそびえたつ叶山を見上げているところです。隣にいるのが、当時のGTVアナウンサー新井さんです。しくじりが多かった私は良く叱られました。それも良い思い出です。週1回の番組を1年間担当しましたので、たぶん、50回以上番組に出演したことになります。今でもその台本が実家に残っています。左下の写真は、お正月番組で着物姿も披露しました。今考えると「良くこんなことしていたな」とぞっとしますが、大切な思い出となりました。
さて、GTVの仕事を通じて、群馬県内で活動されている素晴らしい方々との出会いがありました。ハンセン氏病患者さんのために点字翻訳に従事している筋強直性ジストロフィー症の方や盲目のピアニストの方など病気や障害を抱えながらも生き生きと生活されている方々を知りました。その出会いから自分ももっと勉強しなければいけないという思いが強くなってきたのです。
修士論文とフロムの教え
学習院大学大学院1年目は、週1~2回ほどしか通学しないで、番組制作に明け暮れました。しかし、それではいけないと思い、2年目は、英語塾のアルバイトをしながら、修士論文を書くための学業に専念することとしました。テーマは、引き続き、フロイト主義者の文明論であり、新フロイト主義を言われるフロムの「自由からの逃走(Escape from freedom)」を中心に研究しました。フロムのこの書の中に成績の良くないある医学生の話があります。かれは、将来建築家になろうと思っていましたが、父の「君の職業は君が自由に選んだらよいが、私は医学を学ぶことを希望する」という一言から医者になることを選んだのであって、決して自分から医者になろうとは思っていないことを夢の記憶から知るのです。抑圧された意識の中に父に対する激しい怒りと自分に対する無力感を持っていたのです。現在このような医学生を学生指導上経験することが多いのでとても参考になります。
このようなフロイト主義者の理論をいくつか比較検討して作成した修士論文も合格して、文学修士となり、学習院時代の6年間が終わりました。
さらば!ピラ校
さて、大学院を修了して、大学受験、医師となり、医科大学で教育や研究に従事していた10年前に大きなニュースが届きました。ピラ校が壊されてなくなってしまうというのです。ピラ校の部室に毎日集まり、講義室より部室にいることが多かった私たち元GSRSのメンバーにとっては青天の霹靂です。平成20年1月24日に、元GSRSの有志でピラ校の元の部室に集まることになりました。解体を待つ元部室の荷物は運びだされ、暗く冷たくがらんとしていました。汚れたコンクリート壁には過去の私たちの思い出と落書きであふれていました。ラジオドラマを放送していた懐かしいアナウンスブースも残されていました。パワーポイントのスライドショーのように、当時の場面がコマ送りで流れていきます。
私たちは、壁に最後のさよならメッセージを書き込み、ピラ校を後にしました。写真はその時撮られたものです。部室とその表側の中央教室でも記念撮影をしました。上の写真は部室の中で前列左から2番目、下の写真は教室壇上で前列左端に40代後半の私がいます。ピラ校はなくなってもGSRSの思い出はいつまでも心の中に残っています。
【医歯薬桜友会会報・2017年第24号より転載させて頂きました】