父と私が学んだ学習院

一青 妙
(ひとと・たえ/エッセイスト・女優・歯科医)
(平元女高・昭和大学歯学部卒)

 私は、学習院女子中等科、高等科を卒業したのち、歯科大学に進学し、現在、都内で歯科医院を開業しています。
 医歯薬桜友会のことはよく存じていましたが、直接のご縁はありませんでした。ところが、2012年、フェイスブックを通して、私と同じく歯科医になった女子中等科・高等科時代の同級生から連絡が入りました。「9月の総会に参加したら、妙にどうしても会いたかったという先生から名刺を預かりました。妙のお父様が中等科のときに、一年間同室だったそうです」
 私の父は顔恵民(ガンケイミン)という名前の台湾人でした。昭和3年に台湾の基隆(キールン)で生まれ、10歳のときに「内地留学」として日本に渡り、学習院中等科に入学しました。
 父が生まれた顔家は、日本統治時代の台湾で、金鉱や炭鉱の開発で財をなした一族でした。当時は台湾の「5大家族」とも呼ばれました。その顔家の長男として、父はこの世に生を受けたのです。当時、台湾という「外地」の現地出身者のなかで名門である学習院に入学できたのは、ごく一部の限られた者と聞いています。父は有力家族という背景から入学できたのかと推測しています。
 学習院という学びの舎で、日本人の同級生たちと机を並べ、学んだことは、父のその後の人格形成に大きな影響を与えました。
 日本人としての教育を受けた父。友人はもちろん全員日本人。話す言葉も、歴史観も、国家に対する概念も、すべて日本人のものでした。自分のアイデンティティを完全に「日本人」として捉えきた父でしたが、終戦を迎え、事態は一転します。
 それまで仲間だと思っていた周囲の人たちは戦敗国である日本の国民で、自分は突然、戦勝国である中華民国の台湾人という線引きをされ、父は、これまで信じてきた全てのものが信じられなくなってしまったのです。
 戦後は台湾と日本を行き来しながら、日本人の母と結婚しました。しかし、アイデンティティに関する悩みには、うつ病を発症するほど、苦しめられたようで、その症状は、56歳でこの世を去るまで治ることはありませんでした。ちなみに、当時、父の病を診断して下さった医師は、学習院時代の同級生であった本間康正先生でした。
 このように書くと、父の人生は、随分と悲壮感の漂うつらい人生のように感じられるかもしれません。でも、学習院の仲間たちと一緒に過ごした日々のなかには、楽しいこともたくさんあったようです。
 2012年1月、父について書いた、初のエッセイ集「私の箱子」(講談社)を出版しました。そのなかで書いたことですが、父は中学校時代、学習院の山岳部に所属し、登山やスキーを大好きになりました。日光の光徳小屋、黒菱、白馬、関温泉、燕温泉……。学習院の仲間たちと訪れた場所に、父は深い愛情を持っていました。
 父が亡くなったのは、私が14歳のときです。改めて、父について知りたいと思っても、昭和一桁生まれの父のことを知っている人はだいぶ少なくなってしまいました。父のことをまだ覚えている学習院の方々がいらっしゃったことは私にとって思いがけないことで、本当に嬉しく思いました。
 父は、中国語や台湾語よりも日本語が最も流暢に話せる言葉で、娘から見ても、日本人以上に日本人らしい人だったと思います。
 私が学習院女子中等科に合格したことを、父は誰よりも喜んでくれました。いま思えば、自分にとっていちばん大切で、大好きだった母校に娘を入学させることは、父の夢だったのかもしれません。
 現在、微力ながらも、台湾と日本の架け橋になりたく、台湾をテーマとした書籍の執筆や、各地での講演を行っております。父の故郷・台湾と、母の故郷・日本を行き来しながら、歯科医としての診療もこなすという、少しイレギュラーなスタイルですが、きっと天国で、父も喜んでくれているのではないかと想像しつつ、頑張っている日々です。
 この原稿を読んでくださり、台湾から日本にきた「ガン(顔)くん」を覚えている、という方がまた現れることを期待したいと思います。

山岳部先輩方の入隊記念1944(昭和19年9月)

一青 妙1983(昭和58年)女子中等科合格者発表

顔恵民1941(昭和16年4月)中等科入学

【医歯薬桜友会会報・2018年第25号より転載させて頂きました】

わたしの台南―「ほんとうの台湾」に出会う旅―(新潮社刊)

わたしの台湾・東海岸―「もう一つの台湾」をめぐる旅―(新潮社刊)