その偶然が日本の、そして学習院の スキーの歴史の偉大な一歩となった!
学習院の学生がスキーを始めたのは、はるか明治44年(1911)12月まで遡る。当時来日中だったオーストリア陸軍のテオドール・フォン・レルヒ少佐が長野県の塩尻峠から諏訪へと下った折に、諏訪湖で学習院の学生たちに出会った。彼らはその時は「スキー」ではなく「スケート」を楽しんでいた。レルヒ少佐は、その輪の中に入り、彼らとしばしスケートを楽しんだという。この偶然ともいうべきレルヒ少佐との出会いで、翌年1月5日に二荒芳徳、三島弥彦(日本人で初めてオリンピックに出場した陸上の選手)、相馬正胤、三井高公、戸田安定、有馬行郎の各氏が、レルヒ少佐から直接スキーの手ほどきを受けることになった。これが学習院のスキーの始まりであり、日本に初めてスキーがもたらされた瞬間であった。
大正6年(1917)には、新潟県の関温泉でスキーの一般合宿(初心者指導のための合宿)が開始され、2年後には、山岳部とスキー部から成る「学習院輔仁会旅行部」が誕生した。旅行部が創設されてからは、新設の山岳部とスキー部を統括し、夏は登山、冬はスキーが行われるようになった。山岳部では、25日間に及ぶ「カムチャッカ旅行」をはじめ、15日間の「シベリア旅行」などを、一方、スキー部では、「関温泉スキー合宿」が行われ、47名もの学生が参加した。その後も活動は順調に続けられ、大正13年(1924)に旅行部から「山岳部」へと改称。この後、スキーは山岳部の活動の一つとして行われるようになる。この合宿には、歴代の院長もたびたび訪れている。大正14年の合宿に は、第14代の福原鐐二郎院長がかんじきを履いて訪問。土産に「カステラ」持参し、スキーを試乗したという記録が残っている。
その後も山岳部によってこのスキー合宿は続けられたが、日本が太平洋戦争に突入したことに伴い、活動の中断を余儀なくされた。終戦後の数年は食糧事情の悪化で合宿ができなかったが、昭和24年冬、有志により再び「関スキー合宿」が復活する。翌年12月には山岳部の主催で再びスキー合宿を再開。学習院のスキーに対する情熱を強く感じる。 昭和32年になると、山岳部の中から、活動をスキーにしぼった「スキー部」の設立を目指す部員が現れた。部内外から部員を募り、10名程度が集まった。そして翌年、「スキーくらぶ」が誕生。これが学習院大学スキー部の始まりである。当初は男性部員が多かったが、女性部員も次第に増加。昭和34年に「スキークラブ」とすべてカタカナの名称に変更し、40年まで続いた。そして41年には同好会に昇格して「スキー同好会」と名称変更。部員数もかなり多くなり、スキー部の黄金時代を迎えた。わずか4年後の45年にはついに部に昇格、「スキー部」となり、現在に至っている。スキー部は現在、「ノルディック班」「アルペン班」「一般班」の3班体制で活動。一方、OB・OGは「雪桜会」の会員として、後輩たちの支援にあたっている。今ではウィンタースポーツとして当たり前の存在になっているスキー。その歴史は、学習院スキー史と学習院スキー部史に重なるといっても過言ではないのだ。
<編注>平成9(1997)年6月28日に大学スキー部40周年、一般合宿80周年記念祝賀会が開催された。