日本におけるラクロスの始まり

学習院広報95号で日本にラグビーを持ち込んだ学習院出身の田中銀之助が、学習院にラクロスも紹介していたことにふれました。写真は1905(明治38)年頃の撮影で、2 列目中央の紳士が田中です。「輔仁会雑誌」 62 号 (1904年3月)に掲載された「ラクロス彙報」は、以下のように田中が熱血指導を行っていたことを伝えています。

此技は明治三十四年の秋、故院長閣下(近衛篤麿、引用者注)並に副島(道正)先生の御寄附により初めて、本院に開始せされたる運動法なり。(中略)此運動の開始せられしや、副島先生、田中銀之助氏 、鍋島直映氏、廣澤金次郎氏等、其方法に関して教授の任務を執られ、特に田中氏に至りては非常なる熱意を以て之に従事せられ 、殆ど毎週来場、一々徴細なる点に至る迄指摘せられ、此技の発達を計り、加ふるに精神教育並ぴに身体教育に関して、浅薄なる理論的倫理よりも遥かに実践的のゼントルメン教育の批評ありき。吾人競技者一同の深く感謝する所なり。

続けて彙報はラクロスの活動概要や競技者氏名を紹介し、「ラクロス競技者としての学習院は、大日本帝国に於ける此技の唯一指導者として活歩しつヽあり。将来に於て全世界の夫れたらん事を期す」と結んでいます。その後も「輔仁会雑誌」にはラクロスの活動報告が掲載されますが、65号(1905年3月)を最後に途絶えてしまいました。1912(明治45)年に高等学科を卒業した片岡(藤村)和雄氏は、学習院が目白に移転した1908(明治41)年当時のスポーツについて、以下のように記しています。

剣道柔道および馬術は、学習院ではスポーツというよりむしろ正課だったし、水泳もやはり身心の鍛錬を目的としていた。スポーツとしては、野球、庭球位で、ラグビー、サッカー等はなく、その外他校ではやらなかったクロスカントリーレースも度々やりまた長距離競走もやった。以前はラクロス等もやったことがあるが、目白時代にはやらなかった「(目白学習院の思い出」『学習院野球部百年史』所収)。

学習院でラグビーやラクロスが行われなくなった理由は判然としませんが、1907(明治40 ) 年に就任した乃木希典院長は、球技を好まなかったようです。「乃木院長記念録』(学習院輔仁会編 1914年)によれば、乃木が宮内省御用掛となって初めて学習院を訪れた際、「学生が盛んに庭球をやって居る」のを見て、「一体杓子の様な網で、一度毬を一方から他の方へ折角投げたのを、何故又元の方へ投げ返すのですか。自分は其の理由を聞きたい」と質問したそうです。乃木はテニスとともにラクロスも見ていたのかもしれません。

日本で学生スポーツとしてラクロスが復活したのは1988(昭和63)年、学習院での再開は1989(平成元)年の学習院大学女子ラクロスチーム(現ラクロス部)の創設を待たなければなりません(桑尾光太郎・学習院アーカイブズ)。

出典:学習院広報課様ご了承のもと、学習院広報Glife 第97号 (平成28(2016)年12月発行)より転載させて頂きました。

学習院大学男子ラクロス部 PHOENIX
学習院大学ラクロス部女子