創部当時、皆が真剣に磨いたという撮影技術。
部の伝統として残る物事への真撃な姿勢が、人の心をとらえてやまない作品を創り出す。
今でこそカラーは当たり前になった写真の世界。しかし昭和20年代は、モノクロ全盛の時代であった。学習院大学写真部が誕生したのは昭和24年。旧制高等科にはすでに写真部があったため、大学発足と同時に大学1・2年生として入学した旧高等科生がその活動を続けることで、活動がはじまった。
発足当初の部員は、近藤不二(昭27哲)、水田義直、野口欣弥、田村保夫、尾上清(ともに昭27政)、高橋正明(昭28物)、中村純一(昭28化)の各氏であった。また、初代部長には吉田早苗先生を迎え、部室は本館(現在の西1号館)3階の準備室を使っていた。最初の部室は廊下からドア1枚の小部屋で、水場もなく、現像作業にとても不便。そこで昭和27年、同じ西1号館の地下1階に部室を移した。水場と独立した暗室がある部室であったが、現像液を貯蔵するためのプラスチックの瓶もなかったため、当時はウイスキーやビールの瓶に現像液を蓄えていたという。
昭和25年になると、学習院女子短期大学が開校し、短大写真部が誕生した。同年の11月には、小田急線沿線の柿生にて短大生をモデルに大学・短大合同撮影会を行い、翌年には大学・短大写真部合同の新入生歓迎コンパも開いて、交流の輪を着実に広げていった。
以後写真部の活動の幅も広がり、昭和30年からは、甲南大学と「交歓展」を関東と関西で交互に開催。翌31年からはプロの写真家である牧田仁氏から指導を受け、撮影合宿もはじまった。
そして昭和32年、学習院写真部の黄金時代が始まることになる。「全日本学生写真コンクール」で共同制作作品が優秀校賞に選ばれたのだ。木曾馬の産地として知られる「木曾開田村」をテーマに合宿撮影した組写真「木曾馬の話」がそれで、最優秀学校賞を受賞。以後、「観光地・日光」「風土病-日本住血吸虫病」「変わりゆく漁村-岩手県下閉伊郡」「この大地の隅から-京葉工業地帯」といった作品が高い評価を得て、5年連続最優秀学校賞を受賞するという栄誉を勝ち取った。それらの貴重な作品は、昭和38年に出版された「共同制作 五ヵ年の歩み」で見ることができる。
写真部からはプロカメラマンも数多く輩出しているが、中でも小谷明氏(昭31政)や齋藤煕吉氏(昭34済)は有名である。また、映画・ビデオの分野でも海外で受賞をしたOB・OGの評価は高い。
OB会活動も活発だ。昭和52年に初代部長の吉田先生の定年退職を祝して開かれた「ぴんぼけ総会」は、その後毎年のように開催され、懇親の輪を広げている。ちなみに「ぴんぼけ」の名前は、民放ラジオで流れていたさくらフィルムのコマーシャルソングにちなんでいる。
近年では、毎年4月に開かれる「オール学習院の集い」で写真展を開催し、OB・OGの作品を展示しているほか、日光の光徳小屋での撮影会も行われている。
創部から半世紀。ファインダーを通して、その時代時代の真の姿をとらえる部の伝統は、いまも立派に受け継がれている。温かな雰囲気の中で、OBと現役との親交も今後ますます育まれていくことだろう。
部室:黎明会館102