桜友会90周年企画 フォトギャラリー あなたの思い出お聞かせ下さい

桜友会90周年企画 桜友会90周年企画

学習院と私 あなたの思い出お聞かせ下さい

「学習院女子大学(旧短期大学)第一回生として—創設と共に生きて!」

卒業年 第一回生
最終卒業学校 女子短期大学
氏名 前川冨士子
コメント  昭和二十年八月十五日の終戦後はあらゆる分野において大改革を生じ、明治十年十月十七日天皇陛下の勅諭により、「学習院」の号を賜った後、明治十七年四月十七日より、宮内省所管官立学校であり特権階級の学校と目されていたものが、敗戦により私立となり大学を、新設した新学習院として新たな道を進むことになった。 苦しい復学途上、戦争中よりも厳しい食料難の中、昭和二十四年三月、学習院女子部高等学校を卒業した私共常磐会六十一回生は、卒業と同時に結婚を希望する親心の時代であった。新設された学習院大学には同級生数名が勉学の志で入学され、殆どは高等学校卒業であった。 友人と私の二人は受け持ちの先生にもう少し勉強したいとご相談をし、新設学習院大学の聴講生をお薦めいただき二人は大学に通った。同時に女子部高等科の一年先輩の方の時より、学習院教養学園が設立、初代園長に富永惣一教授(初代西洋美術館長)がなられ、お奨めいただいて同級生数名と入園し最高の恵まれた教授陣のもと二つの学びの道に通った。学習院女子部中等科、高等科の校舎は戦争で全焼した後、戦後陸軍騎兵隊の戸山町の跡地を使用、高等学校時代は南京虫もいたり、窓は小さく暗い赤煉瓦の建物であったが、心は希望に燃えて学びに励んだ。  一年後学習院大学短期大学部が創設され、教養学園は四年間の短い期間で閉鎖、学習院女子短期大学部が新学習院の新しい道を聞いた。(私はこの教養学園の同窓会の会長を創立から推されて今日に至っている)創設した短期大学には、同時に女子部高等科時代、一年後輩の方々が第一回生として入学されている。 この時、宮内省の名取女官長より友人と私の二人は、ご依頼を受け、昭和天皇の第三皇女で順宮厚子内親王(高等科同級)が短期大学部に進学なさることになり、二年間学友としてお守り戴きたいとのご内意があった。二年間は目白の学習院大学まで、歩いて遊びに行くこともあり、楽しい勉学の日々を過ごした。 短期大学の校舎は、陸軍騎兵聯隊よりゆづり受けたレンガの建物の中央階段から東側を女子中等科、高等科が使い、西側半分を短期大学で使うこととなったが、講堂兼体育室も実験室も女子部と共用になっていた。廊下は、戦時中は銃架といって鉄砲を立て掛けた多くの場所は取り除かれ、白いペンキで塗りつぶされていた暗い建物であった。 中央階段を上がった南側に面した当直将校の部屋は学長室に当てられ、その左右の下士官の部屋が教授の部屋に当てられた。教務部長の原敬吾先生より第一回生の中から新設する各クラブ活動の部長を推鷹され私は演劇部長を命じられ驚きであった。 大学演劇部と合同で演劇を行い、この縁で後世、日本の小説家として初めて御夫妻で芸術院会員になられている、吉村昭(桜友会員)津村節子(草上会員)夫妻と親しくなり、私は吉村昭演出の真船豊作「たつのおとし子」という劇の主役を命じられ十八歳でありながら劇中は四十歳位を演じ冷や汗ものであった。以後学習院大学演劇部は「たつのおとし子会」と命名している 後輩の部員には児玉清氏、細川俊之氏、角野卓造氏らの方々がテレビ出演で活躍をしていらした。吉村昭氏津村節子夫妻を中心に私共十人は小説の舞台へ連れて行って下さる旅行を楽しんだ仲の演劇部員として今日に至っている。 私の父、前川萬治郎は、当時個人銀行として東京銀行を設立、頭取を務めていた祖父の下、明治三十年に学習院初等科に入学、卒業時は天皇陛下より銀時計を賜った光栄を得、日露戦争を勝利に導いた乃木大将が明治天皇の勅命で学習院長を拝命され、就任から明治天皇崩御により殉死を遂げられるまでの五年間、寮生活で学生と寝食を共にし、質実剛健、切磋琢磨、質素倹約を学び、目白校内「血洗いの池」で父が作成した万分の一の戦艦を、モーターで動かす場面を乃木院長が大変賞めてくださったことも、父の話してくれた多くの想い出の一つであった。 父の初等科からの同級生は総理大臣を二度も務められた近衛文麿氏、大蔵大臣、宮内大臣を務められた石渡荘太郎氏、阿部正直博士、醍醐忠重中将、牧野伸通氏多くの歴史上の方々のことは幼い頃よりお目にかかり想い出はつきない。 思い起こせば戦争激しき折、陛下の思し召しの下多くの将兵と共に第一線で国の楯となり私共国民を守り抜くため、戦死をされた朝香宮第二皇子、伏見宮第三皇子、又、近衛文麿公御長男方、この事実も忘れ得ぬことだ。 近衛文麿公、醍醐中将(後大将)も戦争の責任をとられ、命を落とされている事実も含め多くの桜友会員も命を落とされていることも忘れ得ぬ事だ。父も戦争中の昭和十七年九月五日の華族会館における役員会の記録には、出席者 武者小路公共氏 前川萬治郎氏 徳川宗敬氏 秋元順朝氏 内藤頼博氏 東園基文氏 牧野忠永氏 税所五郎氏協議事項一、九月十八日  遣泰使節随員 三島通陽氏 日本郵船羅府支店長 東久世昌枝氏   帰朝歓迎会開催の件一、学習院高等科卒業生招待会 九月三十日 午後六時より 華族会館において開催晩餐の件これ以後、太平洋戦争激化により書類メモがとぎれている、桜友会役員会である。 父はじめ孫(初等科一年を含め)まで、全員四世代に渡って学習院に学び、主人(幼年学校、士官学校)と私は、清官徳仁皇太子殿下学習院幼稚園御入園より学習院大学御卒業までの十八年間学習院よりの指名で学年父母の代表と現両陛下の思召の下、尊い経験を過ごし、昨年学習院大学理学部内に新設された「生命科学科」設立の為の財団メンバーに二十年前に推薦された会議の日々、学習院女子大学同窓会(草上会)の運営委員選出の選挙管理委員長の二年間後、運営委員を六年間務め、総会にはこの間、人間国宝歌舞伎役者中村富十郎丈の素踊りを常磐宮華子妃殿下にご覧戴いたこと、小説家養老孟司氏講演、徳川宗家徳川恒孝氏講演、等御紹介できたこと、全ては夢のようで走馬燈が廻るがごとき過ぎし日々であった。                       平成二十五年三月記