桜友会90周年企画 フォトギャラリー あなたの思い出お聞かせ下さい

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学習院と私 あなたの思い出お聞かせ下さい

四十年後の手紙

卒業年 昭和26年
最終卒業学校 旧高
氏名 髙倉公朋
コメント  私は昭和14年4月に初等科へ入学し、20年3月に卒業しました。私が3年生であった昭和16年12月8日に大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まりました。昭和17年の間は戦争が始まったとはいえ、東京はまだ落ち着いており、いつもと変わらぬ授業が続いておりました。しかし四谷の校舎の屋上には兵隊さんが常駐して、敵機が襲来した時に迎撃するように高射砲が設置されておりました。毎日竹竿の先端にモデルの飛行機をつけ、一人の兵隊さんがその竹竿を持って歩くと、別の兵隊さんがそれを狙い撃ちする訓練を行っておりました。昭和18年のある日、一機の米軍爆撃機が東京を通過し、四谷の校舎からも飛んでいる飛行機がよく見えました。受け持ちの大橋武夫先生と土田治男先生の指示で、私たちは地下室に隠れじっと時が過ぎるのを待っておりました。この頃を境に戦局は次第に悪化してまいりました。山本五十六元帥の国葬があり、私たちは四谷校舎の外塀に沿って並び、海軍軍楽隊が「海行かば」の曲を、ゆっくりと演奏して流れていく葬列を全員で頭を下げて送りました。
 国内には大空襲がいつ起こるかわからない緊張感が漂い、学童疎開が計画されました。まず沼津へ、次いで修善寺へ移動する疎開が決まりましたが、大橋先生と土田先生は、その準備でさぞ大変だったと思います。
 昭和20年3月に私共は初等科を卒業し、中等科は引き続いて日光に疎開して開始することになりました。3月10日に修善寺から東京へ全員で戻りましたが、その前日に東京は大空襲に襲われ、列車は大幅に遅れて品川までたどり着きましたが、駅周辺は一面焼け野原となっており、まだところどころ、くすぶって燃え続けておりました。数日後、目白の校内で、ささやかな卒業式を終え、直ちに中等科の授業が始まるために日光への疎開が始まりました。私の家も5月の大空襲に襲われて、初等科時代の日記も記録も全て灰となって消えてしまいました。
 それから40年ほどたったある日、土田先生から一通の分厚い原稿が届きました。開けてみると私が修善寺に疎開している間綴った作文10編と手紙等が入っておりました。土田先生は、生徒たちの作品を40年の間大事に保管して、その熱い想いを送ってくださったのでした。大橋先生も土田先生も今は故人となられましたが、私の初等科時代の遥か昔の想い出が、この封筒の中から現れてきた感がいたしました。
 作文を読み返してみると当時の初等科の生活がよみがえって参ります。その中の一つに昭和19年11月30日(水)に書いた空襲という題の作文がありました。修善寺の疎開中に米国のB-29爆撃機が編隊を組んで東に向かって飛行機雲を長く残しながら飛んでいくのが見えました。私共は小山の藪の中に身を隠して逃れたのでした。その時の想いは空襲を受ける東京のことでした。私の作文はこう綴っております。

 高鳴るサイレン 心がしまる
 遠き雲間に魔鳥の姿
 日ごろの訓練物いわせ
 手早くそろふ退避の姿
 
 帝都を案ずる心をしづめ
 見入るは高度を飛ぶB-29
 足取り早く山中に
 小藪の陰に身をひそむ
 
 響く爆音に耳傾けて
 聞き入る心に流し攘夷
 帝都の空を飛び走る
 敵機の姿が心に映る

今年、私の孫娘が初等科の6年生と3年生になります。初等科の建物の古い部分は、私が学んだ頃と変わっておりません。しかし今は空襲の恐れは無く、平和な時が流れております。今の東京の街の面影から、70年前の東京を想像することは不可能と思います。大橋先生も土田先生も子供たちを大切に育てて下さいました。土田先生が送ってくださった封筒の中味の懐かしい想い出と共に、今改めて「先生有難うございました」と申し上げたいと思います。
(医歯薬桜友会会報第19号より転載)