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学習院と私 あなたの思い出お聞かせ下さい

青春の香り「男女合同公演」のエネルギー。同笑会

昭和26年の文化大会にて。演目は榊原政常作「外向性168」。前列中央の小野洋子氏(現ヨーコ・オノ・レノン)は翌年春、男子部卒業生とチェーホフの「熊」を合同公演し主役を演じた。
卒業年
最終卒業学校
氏名 情報発信広告委員会アーカイブス担当
コメント 同笑会について語ろうとすると、青春の甘酸っぱい香りがたちこめてくる。我々が半世紀にわたって友情を温め続けてこられたのは新制の男女高等科演劇部に属した現役時代、「男女合同公演」の実現をめざしたエネルギーのおかげだと思うからである。
 そのころ音楽部以外のほとんどの部活動は、目白と戸山の間に「ベルリンの壁」があり、合同公演はご法度だった。男だけ、女だけでは良い脚本が見つからない現実と、音楽と演劇のどこが違うのかという「正義感」から学校当局に直訴を試みることになった。

 私と木下崇俊君でなんと古賀軍治女子高等科長の部屋まで出向いた。謹厳そのものの古賀先生はダルマストーブの上で温めておられたミルクが沸き立つのも忘れて驚愕された。答はもちろんノーで、ごく最近某先輩から聞いた話では、先生は当時身内の方に「演劇部の奴が煩くて困る」とぼやかれていたそうだ。
 安倍能成院長の自宅まで我々はおしかけた。部長だった小高敏郎先生、顧問の山上正太郎先生、鈴木力衛先生、金澤誠先生らの後押しがあったと思う。着流しで現れた院長は「君達の言うのは尤もだけど」とうなずかれた後絶句。ややあって「もう一寸待て」と言われた。その時の院長の何とも愉快そうな暖かい眼差しは今も目の前にある。
 その院長をはじめ、多くの先生方が鬼籍に入られて久しい。しかし、当時の学習院は、院長や先生方との距離が本当に近かったとつくづく思う。
 そしてキャンパス内では、敗戦と占領下のショックの中から何とか立ち上がろうと、いろいろな人がいろいろなことに誇りをもって挑戦していた。えもいわれない熱気があった。常陸宮殿下(当時義宮殿下)も演劇にご関心が深く、裏方の仕事を一生懸命やっておられた。
 このままで収める訳にはいかないと、昭和27年の卒業式直後、「男女高等科演劇部卒業記念公演」と銘うってチェーホフの「熊」を上演した。主演女優は女子部委員長だった小野洋子(現ヨーコ・オノ・レノン)。相手役は岡田茂弘。私が演出した。梶本孝雄、故三谷礼二両君ら双方の現役も「送別」を理由に大いに協力、以後少しずつ「ベルリンの壁」は崩れていったのだと思う。
 この団結が今も瑞々しく約十年の世代の幅で維持されている。毎月必ず20名を越す仲間が西村節子(旧姓江崎)さん経営の渋谷「ウエスト」に集まる。ヨーコ女史も次の来日時には「行くわよ」と言っている。最近ではその家族、友人、縁者、さらには演劇部ではなくても学習院での青春に思いを温める人達まで加わってユニークな輪が広がっている。輔仁会OB・OG桜友会にも入れていただいた。
 残された唯一の仕事は、現役との接触再開である。

女子部では・・・
 「男女合同公演」への情熱は下級生に受け継がれたが、女子部の先生方の拒否反応は強かった。
 昭和32年、森村桂がキャプテンになると、その個性を発揮して再三学生部長や演劇部長に食い下がった。しかし、部員にはお妃候補と噂される令嬢もいたので、以前にも増してガードは固くなった。
 ところが、翌年7月、男子部キャプテンの岡田正と女子部キャプテンの石川紀代子は、秋の文化祭に向けて福田恆存作「幽霊屋敷」の戯曲を選び、主演に富田勝義、相手役に岡野浩子と小林哲子、双子役に渡邊幸次郎と鈴木喜久男を組ませるなど、初の「男女合同公演」の構想を発表した。
 部長の近藤不二先生がどれほど奔走されたか計り知れないが、生徒はごく自然に受け止めて練習を重ね、公演は大成功だった。公演開始時、降り出した雨を逃れて講堂に駆け込んだ人々で満席になったおかげもある。
 落研と間違われるような本会の名称が、会の発足後2年目にして未だ決まらないのを、「どうするんだ」「どうしようか」「どうしよう会でいいや」で、「同笑会」になったという、他愛のない謂れであるが、名付け親たちの大らかな気質は連綿と現在に至っている。
(編注:同笑会代表 松尾文夫(昭31政)氏の「桜友会報」掲載記事より。)