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学習院と私 あなたの思い出お聞かせ下さい

中等科時代の想い出

中等科時代の戸山キャンパスの正門
卒業年 昭和39年
最終卒業学校 経済学部経済学科
氏名 児玉 茂幸
コメント  昭和26年の春、我々が入学した中等科は当時戸山校地にあった。最近地下鉄副都心線が開通して随分便利になったが、当時は最寄りの高田馬場駅から歩いて20分以上はかかったと思う。もっとも、駅前から茅場町行の15番の都電が出ていたが、我々にはあまり利用価値がなかった。中等科の校舎は校地の一番奥にあって、正門から5分もかかったような気がする。朝の始業時間間際に運動場を近道がわりに斜めに突っ切って叱られることもあった。
 通学は都下から通学する数少ない生徒の一人だったが、入学当初は高田馬場まで西武線を利用した。当時は木造車も混じる2~4両編成の短い編成で、朝の混雑振りはすざましいものだった。あまりの混雑に青息吐息のチビを見かねた車掌が仕切りの鉄棒の内側に入れてくれたこともあった。目白側にしかなかった高田馬場駅の混雑も大変だったし、舗装されていない霜解けの道を通り、編上げの靴が泥んこになってしまうのにも閉口したものだ。一方、下校の時はいつも数人の仲間と連れだって、じゃんけんでカバン持ちを決めたり、途中の諏訪神社の境内にあった防空壕の跡地にもぐりこんだりして寄り道をしていた。校地の中にもいろいろな戦中の遺物・遺跡(?)があって休み時間にこれらを探索するのは大変魅力的だった。しばらくして近くに住む岩重昌興・八木正の両君を知って今度は中央線で通うようになり、休みの日などにはお互いの家を行き来し遊ぶようになった。
 さて、肝心な授業の方はまず入学して驚いたことの一つに英語の授業の時間が多くて、毎日のように授業があることだった。すでに初等科で英語を履修してきた諸君に一年間で追いつくための方策だったが、角屋先生のお顔を見たくない日もあった。角屋先生の英語には四苦八苦した思いしかないのだが、そのほかにも山田先生(国語)、日戸・猿木両先生(数学)、小出先生(音楽)、熊沢先生(図工)、菅原・名越両先生(体育)、市川先生(地理)、江本・川崎両先生(理科)、菊池先生(英語)など多くの個性豊かな先生方にお世話になった。
 小出先生には、別棟の特別教室で先生のピアノ伴奏で安倍能成院長がお作りになったばかりの院歌を教えていただいた。先日(平成20年10月13日)、学習院の目白移転100年を記念しての公開講座で、院歌に謳われた“廃墟の上に立ち上がれ新学習院”にかけられた安倍院長の時代を超えた希いに触れられた時には、その年に中等科生になったことを感慨深く思った。
(平成20年11月発行 昭和29年中等科・昭和32年高等科卒業同期会記念文集「古希を迎えて」より)