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学習院と私 あなたの思い出お聞かせ下さい

学習院と私

中等科3年バスケット部(主将を務める)、附属戦での勝利
卒業年 昭和41年
最終卒業学校 経済学部経済学科
氏名 小山髙夫
コメント  昭和30年9月5日、家庭の事情から養子縁組をする目的もあり、私は親元(京都の実家)を離れて東京へ来た。当時、京都~東京間の東海道線は、東京~米原までしか電化されておらず、養父になるオジサン(血縁はなかった)と夜行列車で京都駅を出発したのは、蒸気機関車だった。ポーッという汽笛と共にガタンゴトンと列車がホームを離れ親兄弟、親戚の人達の見送りに思い切り手を振り゛特2゛の座席についたが、涙は見せなかった。東京に着いた翌日には2学期の始まりで、千代田区立神田淡路小学校に転校生として登校したが、神田のチャキチャキの江戸弁の中で京都訛りの私はクスクスと笑われしゃべることがつい気お遅れしてしまった。クラスのほとんどの生徒が、地域の区立中学校へ進学へするのだが、私はハッキリと私立校への受験が目的であると、広言し数奇な目で見られた。京都の小学校では、ほとんどの課目が100点の答案が、東京では80点前後になりショックだった。それよりもホームシックが激しく、学校の行き帰りから夜、寝床へつくと毎日々涙が出て2学期の中端までは、受験勉強どころではなかった。初めての東京の正月を迎え、儀式の多い京都の正月とのあまりにも違う正月を過ごして、やっと東京で受験をするのだと現実味をおびた時には、第一志望の受験が迫っていた。風邪で体調を崩したまま絶不調で受験した慶応普通部そして同中等部両方とも残念ながら不合格だった。
 受験合格まで電話連絡を禁止していた京都の母はついに禁固を破り、「京都の学校へ帰るか?」と言ってきたが、私は自ら「学習院中等科」へ挑戦する意志を固め、合格するまでは京都へ帰らない決心をもって受験をし、夢は叶えられ合格した。しかしその提出願書の中に書かれた父母保証人の欄は、小山ではなくオジの名前であり、備考欄には゛入学後養子縁組をする゛と記載されていた。私は子供心にオジの希望する慶応義塾に入っていれば養子縁組を受け入れ゛佐藤゛姓になっていたと思う。私は゛学習院゛であった為、何故か姓が変ることに固辞したようだった。京都の親元では母方のご先祖に、京都御所内の学習院に学んでいた、とのことから大変喜び、中等科入学式前の春休みに京都へ帰る時から制服を持参させられ、それからは京都へ帰り、母方の祖父母の家に帰京の挨拶に行く時は、制服姿で行っていた。
 私が学習院中等科へ入学した時は、学習院女子部の敷地内、戸山練兵隊兵舎の跡が校舎の時があり、中等科3年の一学期まで戸山に通い、夏休み後目白の新校舎に移った。中等科3年間はバスケット部に所属、3年生の時には主将と応援委員で附属戦を戦った。高等科に進む時、私は育ての親のオジの家からどうしても賄い付きの下宿に移らせて貰いたいと、京都と東京の゛親゛にお願いをし我ままを通して下宿生活をしながら、バスケット部も続けた。ところが1年生の夏合宿で左足首の骨折で休部することになった時は、私の東京での相談する遠縁の人達に、大学は東大を狙ってはどうか?と進言され、学習院高等科→東大の道を歩まれた先君の道しるべは、吉田茂、三島由紀夫・・・数多くの名が浮び憧れた。゛この道だ゛とバスケット部を辞め受験体制に入ったが、「高校生の下宿生活」ではかなり不便なことが多かった。更に私は3年生の時、附属戦の応援委員長となって必勝を期して、各運動部の選手と受験勉強を離れ、共に明け暮れた。
 高3の夏休みに京都へ帰った時、それまで私の進路に何一つ口を挟まなかった父に質問された。「東大へは現役で受かる自信はあるのか?」 私自身 受験勉強に費やした時間の少なさなどから現役合格は危ないと思っていた時であり、「一浪ならば自信はあるけれども・・・」。 そして父は続けた。「友達はどうするんだ? そのまま学習院大学へ進まれるのか?」 私の中・高等科の友人・仲間で外部へ受験して行く人は一人もいないことを告げると、父はポツリと「あんなに良い友達と別れて、ヨソの大学に行くのは勿体ないなあ。学習院大学へ皆と一緒に行ければ一番良い道じゃないか」と、この一言が私を決定的に゛学習院゛と結びつけてくれた。その時、学習院と接してまだ5年半だった。高等科時代のもう一つの思い出は修学旅行先が京都であり、仲間と制服姿で京都の街を歩けた楽しみと喜びは、一生忘れない思い出となった。
 中・高等科時代を通じて、親元を離れて通学した同級生が私以外にもう一人いた。それが現在の第220世東大寺別当の北河原公敬君である。新幹線もない当時、夏・冬・春休みになると京都迄一緒に夜行列車や特急さくらで帰り、彼は京都から奈良(東大寺)へ帰って行った。彼は、大学は龍谷大に行き、その後祖父、父上の後を継ぎ華厳宗管長に就任された。
 大学では、新しいスポーツでモーターボート・水上スキー同好会に入った。この水上スキーを通じて私は青春を謳歌し、先輩・後輩の縦のつながりや他校の友人を持つことになる。中等科・高等科時代はに親元を離れて一人で暮らす私に家庭の味を沢山味わせて頂いた友人達とそのご両親・ご兄弟のお蔭ですっかり学習院に根付いた私は、夏や冬休みで京都へ帰る時も友人と一緒で、いつしか゛京都から東京へ帰る゛という言い方になっていた。大学3年から4年になる時に妻と婚約し、大学4年生では運動部もやめ、義父の会社で働きはじめた。3月の卒業式のあと5月に結婚。翌年には長女が生まれ、若い父親になった。
 その後、私は大学の水上スキー部(同好会から昇格)の後輩達とかかわり、監督として全日本男女総合優勝をしたり、OB会長として学生諸君とかかわっていた。長女のあと長男・次男と男の子に恵まれ、長女は妻の出身校の白百合学園へ幼稚園から入ったが、息子2人は念願の初等科に入学できた。私は中等科から入学したが、私の夢である「息子は初等科から・・・」の夢が果せたのである。そしてその息子達も大学までの学生生活を全て学習院でお世話になって今や立派(?)な社会人である。
 私は昭和41年大学卒業後も、中・高等科時代からの仲間10人で未(ひつじ)年にちなみ 名前をメエメエ会(=名迷会)として、夫婦がらみで付き合い、水上スキー部とはずっと関わり、院歌を唄い続けた。そして桜友会とは評議員・理事として、中・高桜友会学年代表幹事・江東桜友会第3代目会長そして今年、桜友会常務理事として、学習院との絆は深まるばかりである。
 ゛燃ゆる火の、火中に死にて・・・゛と死ぬまで院歌を唄い続けたいと思っている。  2011(平成23年5月31日記)小山髙夫