平成18年12月1日発行第89号 創立85周年記念号より抜粋

第25代学習院長に波多野敬雄氏が就任
波多野敏雄(はたの よしお)
生年月日 昭和7年1月3日
昭和25年 学習院高等科卒業
昭和28年 東京大学法学部中途退学、外務省入省
昭和31年 プリンストン大学卒業
昭和42年 吉田茂(元経理)秘書官
昭和50年 大臣官房人事課長
昭和52年 大臣官房総務課長
昭和56年 在アメリカ合衆国日本国大使館公使・特命全権公使
昭和57年 中近東アフリカ局長
昭和59年 大臣官房外務報道官兼昭和天皇御進講役
昭和62年 大臣官房外務報道官兼昭和天皇御進講役
平成2年  在国際連合日本政府代表部 特命全権大使
平成6年  退官、財団法人フォーリン・プレスセンター理事長
平成15年 学習院女子大学学長
平成18年 学校法人学習院長・理事長

卒業生インタビュー 平成18年9月22日、憲政記念館にて
「女子学習院の頃」
おおらかさとの出会い
相馬雪香(昭6女子学習院)「難民を助ける会」名誉会長

  ・・・相馬さんと学習院の関係、そして思い出などを教えてください。
 女子学習院に入ったのは大正13年(1924)で、卒業は昭和6年(1931)、私の知っている女子学習院は5年間です。初めは聖心女子学院に通っていたのですが、先生とケンカばっかりしてましたから関東大震災後そのまま学校に行かなくなったのです。そうしたら翌年に父から電報が来て明日試験があるから出て来いっていうので、当時いた軽井沢から東京に出て行って試験を受けました。その時の女子学習院は、前期4年、中期4年、後期3年があって、私は中期の3年からで、一緒に外から4人が入りました。
 そんなこんなで女子学習院に入りましたところ、クラスで華族の方と同じお当番になりまして、そのお当番同士でケンカをしちゃった。それが酒井さんっていう方ですが、酒井雅楽守の子孫だったんですね。でも、お当番があるからそうそうケンカもしてられなくて、結局、仲良しになって、酒井さんとは随分お付き合いしました。お屋敷にも呼ばれて行きましたけど、ビックリしちゃって。我々の家と違ってとにかく大きいでしょ。そういうのが当時の女子学習院だったんですよ。ほかに外から一緒に入った方は、外交官や学校の先生のお嬢さんでした。酒井さんなんかも結構乱暴でしたけれど、なにしろ一番やんちゃだったのは私。負けず嫌いではありましたけど、成績を良くするなんてこと考えたこともなくて。 でもそれを先生方は認めてくださった。本当に女子学習院はおおらかでしたよ。いろんなことを許していただいた。まあ、尾崎さんだからしょうがないわ、って目をつぶってくださって。
 国語の佐藤先生という方がいらして、その先生に私が「なんで女子学習院なんかに教えにいらしたの。つまんないでしょ」って聞いたら、先生は、明治維新の元勲の子供たちがどういう教育を受けているかが見たくて来たなんておっしゃってました。その先生も平民の方ですが、大正13年(1924)っていったらわりに、先生も特別に華族だからという接し方はなさらなかったですね。
 明治の日本海軍の父で総理大臣も務めた山本権兵衛さんのお孫さんともとても仲良くなってね、山本さんの家に伺うとおじい様が「ああ尾崎の娘か、よう来た、これ食え」なんてお菓子を出してくださってね、そんな調子でした。北白川宮様の御殿にも参りました。北白川宮様は軽井沢に毎夏おいでになりまして、私の家のお隣りでした。殿下のお妹さんが同級だったので、馬を私の家の厩でお預かりいたしました。そのお妹さんも結構おてんばでね、よく話が通じて。特に宮様だから、特別ということもなくて、普通のお友達としてお付き合いしておりました。組は違っておりましたが、遊びの時間はご一緒だし、宮様だからといって手を控えるなんてことは、いたしませんでした。先生も、認めていらっしゃいました。本当にありがたい時代でしたね。
 女子学習院での教育が私の根本になっています。本当に正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、はっきりしてらっしやったんです、先生方は。
 女子学習院を卒業後は上の学校に行きたかったんです。父が知り合いの方に東京大学に入れるか聞いてくださったのですが、残念ながら女子は入れられません、と。その時父が「勉強は学校だけじゃありません。一生かかってするものです」と言った言葉が強く印象に残っています。昭和6年(1931) 8月に父はアメリカのカーネギー財団に呼ばれてアメリカに講演に行くことになって、勉強になるからと私を一緒に連れて行ってくれました。それからイギリスに行きました。向こうに1年半、行っておりました。その前にワシントンに行って、父はフーバー大統領にお会いしたのですが、帰ってきて父はしきりに残念だ残念だと言ってました。何が残念かと聞いたら日本が日支事変を起こしてますね。父は、日本政府は事態を抑えられないからさらに大きく拡がるといくら言ってもフーバー大統領はじめそこにいた人達は、日本は明治以来ウソをついたことはない、日本政府はこれ以上行かないって言ってるから、それを信じると。今の日本政府はそうはいかないといくら言ってもダメだった。明治以来、築いてきた日本の信用をこれで失う。残念と。その印象がとっても強かった。学校は個人の道徳は厳しく教えてくださったから、個人が正しいことをする大切さはわかっていたけれど、国にもおんなじに正しいことをしなければならないという、個人と国との関係、別扱いではなくて通じてるということを感じました。当時右翼なんかが、尾崎を黙らせろといっても黙らないんです。人がなんと言っても自分が正しいと思うことはやらなきゃいけないということを教わったのはその時。
  政治家・尾崎行雄の何を現代の人に伝えたいですか。
 世界の中の日本という考えが一番大きいんじゃないでしょうか。今の政治家の方々は日本はもうこれでいいと思ってらっしゃるのでしょうか。どうでしょうか。今は地理的にもイメージ的にも世界は昔よりはるかに小さくなっていて、地球上のどんな地域とも関係があるんじゃないでしょうか。日本あっての世界じゃなくて、世界の中での日本という考えでなくてはいけない。父の影響もあるし、母の影響もあるし、外国に接して受けたいろんな影響もありますけどね。でももとになる考え方というのは、日本は世界の中の一員で、世界を抜きにして日本はないってことですよ。父の言葉を今引っ張り出したら、ちょうど、今の時代に合うんです。昔とおんなじことをまた日本はやろうとしてるのでは。その頃の文章をそのまま持ってきても役に立つようなものが随分ありますよ。
  学習院を含めて、これからの子供たちへの教育に何を望みますか。
 私ね、日本がまた昔と同じような「天下に冠たる大日本帝国」になりかけてるように感じるんです。世界が小さくなってるから、みんなと仲良くしていくしかないですよね。それをどうやって皆さんにわかっていただけるのかと思って。今の学校教育がどういうものかよくわからないのですが、私たちの頃は先生が皆、私たちのでしゃばりなんかを許してくださったけど、今はみんな心が狭くなってるんじゃないでしょうか。学生の身分なのにそんなことしちゃいかんとか。おおらかさがないでしょ。世界の人たちとコミュニケーションをとっていかなくてはいけない。そのコミュニケーションに大切なのは、相手をおおらかに受け入れることじゃないでしょうか。

相馬雪香 (そうま・ゆきか)
明治45年(1912)1月26日、東京・品川に生まれる。現在94歳。「憲政の神様」と言われる尾崎行雄氏(咢堂)の三女。日本初の英語同時通訳者。昭和6年(1931)女子学習院卒業。昭和12年(1937)相馬恵胤氏と結婚。昭和14年(1939)よりMRA(道徳再武装運動)に携わる。昭和52年(1977)に「日韓女性親善協会」を設立。さらに、昭和54年(1979)には、「インドシナ難民を助ける会」を設立(後に「難民を助ける会」)。長年の功績に対して、平成3年(1993)にエイボン女性大賞、平成11年(1999)に読売国際協力賞(難民を助ける会)を受賞。難民を助ける会名誉会長、尾崎行雄記念財団副会長、日韓女性親善協会会長、国際MRA日本協会名誉会長ほか要職を務める。主な著書に「心に懸ける橋」(世論時報社)、「あなたは子どもに何を伝え残しますか」(祥伝社)など。

第1回 草上セミナー(平成18年7月12日/学習院女子大学にて)
「国際社会の中の女性の生き方」
中山恭子内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)

私が日本人拉致事件で経験したこと・・・

 第1回草上セミナーでお話させていただけますことを大変光栄に存じます。私自身の経験をお話して、少しでも参考にしてもらえたらと思います。
 2002年の秋、北朝鮮による日本人拉致問題に関わることになりました。中央アジアから帰国後間もなく、当時の福田康夫官房長官からお声がかかりました。まず、拉致された被害者のご家族にお会いしました時、非常に印象深かったことは、ご家族の方々が、娘や息子がいなくなって長い間大変つらい思いをしているのに、周りの人のことを思いやり、お互いに慰めあい、助け合う、そういう日本的なものをしっかりと持っているということでした。
 日本人拉致には、いくつか理由がありますが、そのひとつに北朝鮮工作員を日本人のように仕立て上げるため日本人化教育を施すことが必要となり、日本人を拉致したということがあります。そのため、典型的な日本の家庭でしっかりと日本的な躾を受けた人々が拉致されました。また、若者が姿を消したケースが全国にたくさんありましたが、それはそのまま若い日本人を工作員に仕立て上げようとしたのだろうと考えられています。拉致された若者たちは責任感が強く、その地域でリーダーとして慕われていた人たちです。したがって残された家族も典型的な日本の家庭の方々だということをご家族とお会いして感じ取ることができました。
 2002年10月15日、被害者5人が平壌から一時帰国しましたとき、日本政府は、この5人を、5人が日本にとどまりたいからではなくて、5人の意思に関わらず、日本に滞在させるとの日本政府方針を10月24日決定しました。この方針が拉致問題についての日本の対応のひとつのターニングポイントだったと思っています。政府の中で日本として拉致問題をどう考えるのかということが非常に激しく議論されました。国民の生命・安全・財産を守ることは政府の基本的な役割です。北朝鮮に拉致され全ての自由を奪われている日本人の救出は、被害者や家族だけの問題ではなく、日本政府の仕事であるということを、しっかり打ち出すことができました。政府は自分の仕事としてこの拉致問題について北朝鮮と交渉していくことがはっきりといたしました。
ジャカルタでの家族再会
 北朝鮮が日本とあまりにも違う国だということは、曽我ひとみさん一家がジャカルタで再会して、家族を日本に連れてきた、この時の動きを見ていただくとわかりやすいと思います。
 当時、北朝鮮側は曽我さんの夫のジェンキンスさんを日本に渡すつもりはなく、ひとみさんを平壌に連れ戻すという筋書きでした。当初計画されていたとおり、もし北京で再会していたら、この一家は平壌に連れて行かれていたと思います。日本の担当者は拉致された日本人とその家族はすべて日本に帰国させるとの考えでいましたので、一家を日本に連れ 戻すためには北京で再会させてはならないと考えました。また、ひとみさんも娘2人はなんとしても日本に連れて戻ろうと真剣に考えていました。彼女のそばにいて感じていましたのは、再会して日本に行こうと説得しても説得できずどうにも動きが取れなくなったら自分の命をかける覚悟をしているということでした。ひとみさんには、自分の家族を平壌には絶対に返さないという非常に強い思いがありました。
 ジャカルタで再会することとなりましたが、ジャカルタで再会しても北朝鮮側はこの家族を連れて戻れると考えていたようでした。そういうことがわかっていましたので、チャーター便を使い、ジャカルタではしっかりしたホテルを使用しました。全国からずいぶん非難が寄せられましたが、そうでもしなければ、この家族を北朝鮮から切り離すことができなかったということを、ご理解いただきたいと思っています。
 平壌では、ジェンキンスさんと二人の娘のほか、一家を監視する北朝鮮の3人の指導員もこのチャーター便に乗りました。ジャカルタの空港で、タラップを降りたジェンキンスさんをひとみさんが抱きかかえました。隣にいて驚きましたが、同時にひとみさんは自分でできることは何でもやろうしている、頑張っているなと思いました。北朝鮮では人前で抱擁する仕草は禁止されているそうで、「ここは北朝鮮ではないんだよ。あなたは北朝鮮を出たよ」ということを夫に認識させ、自分たちは絶対に北朝鮮に戻らないという覚悟を示す仕草だろうと、考えました。そのまま日本人だけが乗っているバスに一家を乗せ、ホテルへ向いました。ホテルでは日本政府が借り上げていた14階の奥の一角にこの家族を押し込みました。この時が一家を北朝鮮から物理的に切り離すことのできた瞬間です。
 北朝鮮の指導員も同じホテルに泊まり、ジャカルタには北朝鮮関係者がたくさん住んでいましたので、北朝鮮側はいつでもこの家族に接触でき、思い通りに動かせると考えていました。北朝鮮では、拉致被害者など監視下におかれている人々は、指導員から指導されたとおりのことしか話せない状況におかれています。
 ジェンキンスさんが英字新聞のインタビューの中で、小泉総理が説得したときどうして一緒に行くと言わなかったのか、という質問に答えています。「小泉総理に会う前に、"日本に行くと言ってはいけない、小泉総理があきらめない時には北京まで行くから、ひとみさんも北京まで連れてくるように言いなさい" と指導されていた。自分がもし、日本に行きたいと答えていたら、小泉総理と別れた後、その日のうちに自分の命はなくなっていた」と答えています。ミカさんやブリンダさんも同じように、「日本に行くとお父さんが殺されるから行けないと言いなさい」と指導されていました。ですから二人はそのとおりのことを繰り返していました。それ以外のことは言えませんでした。北朝鮮では監視されている人の会話はすべて盗聴されているというのが当然のことで、家庭の中での会話も盗聴されています。監視下にある人々はいつも恐怖の中で生活しているということがわかります。自分の命に関わると考えていますので、本当のことは決して言えません。
 ジャカルタのホテルでは14階のエレベーターはカードを入れないとドアが開かないようにし、一家の部屋の電話も取り外してしまいました。北朝鮮側は曽我さん一家に接触することはできなくなりました。家族4人で生活し、自由に話をしてもらおうと思いました。医師だけが中に入っていました。数日後、ジェンキンスさんから日本に行きたいと伝えてきました。ジェンキンスさんに確認しましたら、家族揃って日本に行きますとサインをしてくれました。子供たちはまだ北朝鮮に戻る気でいるが、ひとみと2人で説得するからということでした。
国際社会で生きるために
 ジャカルタでは北朝鮮が汚い言葉で日本を非難しましたが、現場にいた日本側担当者たちは、北朝鮮からついてきた指導員やそれを取り囲む人々は、日本を非難しているのではなく、必死で訴えなければ平壌に帰った時、厳しい処罰が待っていて大変なんだろうと心配しながら様子を見ていました。拉致された人々を監視している人々は重い責任を負っていることが分かります。
 そして多くの人々の協力と支援があって、この一家を日本に連れてくることができました。
 曽我さんをはじめ帰国した被害者5人を見ていますと、北朝鮮に残されている人々を、1人も残さずに日本に連れ戻してこなければと思います。自国の国民を守れない国は国際社会でも信頼を得ることはできません。まったく異質の社会の隣の国、その国と、どのように付き合うか、日本の全知全能を傾けて対応していけば、必ず対応できると思っています。
 国際社会は非常に厳しい社会です。自分の意見を、しっかりとした論理のもと、言葉で表現して確実に相手に伝えないかぎり、理解されないということを知ってほしいと思います。言わなくてもわかってくれるという付き合い方は通用しません。自分の意見をしっかり伝えられるように、自身を鍛えておいてほしいと思っています。