波乱多き戦前戦後を学習院で・・・渡辺 忠三郎(昭23旧高卒)
そして今・・・ピアノ一途に エンターティナーとして生きる 昔は皇族、華族、士族、平民という身分が定められ、私は平民でしたが母方が華族であった為、母方の叔父、叔母そして従兄弟、従姉妹たちの殆んど全員が学習院の卒業生または在校生でした。私は丈夫育ちだったことが幸いして初等科6年間無欠席という褒賞を頂きましたが、これが中等科1年まで継続、悪ガキに転じた中等科2年生からは多欠席の連続でした。学習院はご存知の如く皇室のご庇護も厚く、われわれは「皇室の藩屏たれ」の精神を養われました。同時に乃木希典院長時代から引き継いだ乃木イズムも濃厚で「君たちは着ている服に穴があいていることを恥らう必要はない。恥らうべきは修理されずにほころびたままの服を着ていることである」の教えは今に至るも名言なりと信じています。
中等科4年の秋からラグビー部に入部、戦時色が次第に濃厚になる中を比較的気楽な学生生活を過ごしました。昭和19年高等科に進んでからは益々悪ガキ度が進み、授業をサボったり、学校をスケたり(語源はエスケープ)、友人宅で麻雀に興じ、その足で再び学校へ戻ってラグビーの練習に励んだり、生意気な奴を「血洗いの池」に呼び出して池に殴り落としたり等々。
ところが戦況は次第に悪化し、どうせ死ぬなら一発でも敵に打ち込んでから死にたいと願い、採用年齢ギリギリの9月に海軍予備生徒を志願したのです。海軍生活を終戦で終えて再び目白に戻りました。昭和22年ごろから学生バンドを編成し、輔仁会大会にジャーリングバンド(学生のアマチュアバンド)で出演したり、黒田一夫、池上利光などと占領軍キャンプ巡りを始め、受験よりもバンド生活に力を注いでいたが、どういう風の吹きまわしか東大農学部林学科に入学しました。授業は1年の1学期のみ、ノート、教科書は一冊も無し、但しジャズの道は皆勤という経過を経て昭和27年春大学を卒業してしまったのでした。
当時はパルプ業界が大盛況で、私の林学科の仲間は飛ぶようにパルプ会社に内定。大学とは縁の薄い私は就職して恥をかくより東京近辺で就職したいと思い、ラジオ東京(今のTBS)に入社し音楽番組の制作担当、8年後から営業、ネットワーク、経営企画といろいろの部門を歩きました。その間TBSの諒解を得て昭和54年ごろから昔の仲間と音楽活動を再開し、宮仕えとピアノ弾きの二足のわらじをはきこなし、平成4年からはピアノ一途で今日に至っています。
顧みれば、昭和こそがわが世代ですが、波乱多き戦前戦後を学習院で過ごし、高度成長からバブルまでを社会人として、またバブル破裂以後をピアノ弾きとして生きてきた、否、生きているわけです。これを支えてきたのは、一に健康、二に友情、三に開運ということだと思います。両親、家族、学習院関係者、友人たち、会社生活での緒
諸先輩や同僚たちに心から感謝を捧げたいと思っております。
帝国ホテルのランデブーバーでピアノを弾いている渡辺さんをお訪ねした日は、一人でビールを飲みながら演奏を楽しんでいる外国の女性や、家族連れ、若い人のグループが、グランドピアノの周りをい囲んでいた。
リクエスト中心の演奏は、映画音楽、ジャズ、ハワイアンのほか童謡のサービスまであって、アットホームな時が流れている。ひな祭、五月の節句の歌や、その季節に応じた歌など演奏もされるとかで、レパートリーは、おおよそ二千曲、「ミレニアムですから」 と渡辺さん。
休憩なしの2時間40分の演奏はエンターティナーにこだわる心意気が伝わってくる。学習院を愛し、「当時のよき時代の学生気質を音楽を通して伝えたい」と云われ同窓生が来られたら「信州男児」や「大瀛の水」をアレンジして弾きますとおっしゃっていらっしやいます。
ランデブーバーでのランデブーを楽しんでは如何でしょう。(T・Y) |