平成12年10月1日発行第77号より抜粋

歴史探訪(3)「学習院の女子教育」

昭和こそわが世代
       ・・・渡辺 忠三郎(昭23旧高卒)

違いを認め、違いを尊重する
         ・・・特別専任教授 平野 次郎

新刊紹介


歴史探訪(3)「学習院の女子教育」

 桜友会員の男女比をみると多分女性の方が多いものと推定されています。本年度の在校生でも女子の方が多くなっていますから、学習院が女子教育に力を注いでいることは明らかです。その歴史をみてみましょう。

学習院から華族女学校、学習院女学部から女子学習院へ
  護持院ケ原といわれていた神田錦町に明治10年に開業した学習院には女子教科として女子小学があり、明治18年には女子教育を専門とする華族女学校が創設された。
 皇宮付属地の四谷区尾張町(現在の初等科)に創設された華族女学校は明治20年には御料地の麹町区永田町の新校舎に移転した。(現在の参議院議長公邸、昭和18年に華族女学校遺蹟碑を建立)
 華族女学校は明治39年には学習院に合併され学習院女学部となったが、大正7年に女子学習院として再び独立し、青山練兵場跡地の赤坂区青山の新校舎に移転した。(現在の秩父宮ラグビー場)

二重学年制
 大正9年から昭和6年までは二重学年制(4月入学春組と10月入学秋組)をとり、特に少女期の発育の差を広げないようにしていた。
仮校舎から雪中の進駐
 女子学習院は昭和20年に大空襲により校舎が全焼し、目白の徳川義親侯爵邸を仮校舎とし、その後音羽の護国寺の月光殿や境内の音羽幼稚園なども使用していた。(仮校舎として使用した徳川邸本館はその後八ヶ岳高原ヒュッテとなった)
 昭和21年3月に牛込区戸山町の近衛騎兵連隊跡地を新たな校地とすることにした。この広大な敷地と兵舎跡が無法集団に占拠されないうちにと、早春の残雪の中を徳川邸から生徒達が行進し、将校集会所(女子部では礼法室として使用)に「女子学習院」の校札が掲げられた時、教職員の中から期せずして万歳の声が挙がったという。女子部ではこれを「雪中の進駐」と言っていた。
そして再び学習院へ
 昭和22年に学習院及び女子学習院は一体化して、私立の財団法人学習院となった。
 四谷の初等科は男女共学とし、戸山の女子中等科、女子高等科は別学となった。女子中・高等科は女子部と称していたこともある。
 なお(男子)中等科は昭和24年より32年まで戸山にいた。
 ここまでは主として初等中等教育です。
女子教養学園、女子短期大学、女子大学も
 学習院となり高等教育も充実され、昭和22年より27年まで女子教養学園を下落合の昭和寮に開設した。
 昭和25年に戸山校地に女子短期大学部が設けられ、28年に女子短期大学となった。なお、女子短期大学は、平成13年には最後の卒業生を送り出す予定である。
 平成10年には女子短期大学とは別に新たに女子大学が設けられた。
幼稚園は共学
 明治27年には華族女学校に付属して男女共学の幼稚園が設けられ、男子でも女子学習院に通園した。この幼椎園は昭和19年に保育を中止した。
 学習院の男女共学の幼稚園は昭和38年に豊島区目白に再開園された。
華族女学校の笠石
 永田町の旧華族女学校正門が昭和11年に撤去されることになり、女子学習院では門柱の笠石を譲り受け青山校舎の通用門の門柱に設置した。
御歌碑(女子教育の精神)
 明治20年に皇后陛下(昭憲皇太后)より華族女学校に御歌「金剛石」「水は器」が下賜され、昭和10年の開校五十周年記念祝典でこの御歌碑が建設された。校庭の築山に建てられ、当時は正面を通過する際には屈体、恭敬のこととされた。
 大正12年には皇后陛下(貞明皇后)より御歌「花すみれ」が、昭和9年には皇后陛下(香淳皇后)より御歌「月の桂」が下賜されている。
 これらの御歌は学習院女子教育の精神を示している。
女子部正門
 明治23年に建てられた四谷の学習院の正門はその後鐘ケ淵紡績に払い下げられ同工場の門となっていたが、これを買い戻し一時目白の御榊壇脇に置かれていた。昭和25年に戸山校地に移設し、女子部の正門とした。
 明治初期の鋳鉄製の門として現在国の重要文化財に指定されている。


昭和こそわが世代

波乱多き戦前戦後を学習院で・・・渡辺 忠三郎(昭23旧高卒)

そして今・・・ピアノ一途に エンターティナーとして生きる
 昔は皇族、華族、士族、平民という身分が定められ、私は平民でしたが母方が華族であった為、母方の叔父、叔母そして従兄弟、従姉妹たちの殆んど全員が学習院の卒業生または在校生でした。私は丈夫育ちだったことが幸いして初等科6年間無欠席という褒賞を頂きましたが、これが中等科1年まで継続、悪ガキに転じた中等科2年生からは多欠席の連続でした。学習院はご存知の如く皇室のご庇護も厚く、われわれは「皇室の藩屏たれ」の精神を養われました。同時に乃木希典院長時代から引き継いだ乃木イズムも濃厚で「君たちは着ている服に穴があいていることを恥らう必要はない。恥らうべきは修理されずにほころびたままの服を着ていることである」の教えは今に至るも名言なりと信じています。
 中等科4年の秋からラグビー部に入部、戦時色が次第に濃厚になる中を比較的気楽な学生生活を過ごしました。昭和19年高等科に進んでからは益々悪ガキ度が進み、授業をサボったり、学校をスケたり(語源はエスケープ)、友人宅で麻雀に興じ、その足で再び学校へ戻ってラグビーの練習に励んだり、生意気な奴を「血洗いの池」に呼び出して池に殴り落としたり等々。
 ところが戦況は次第に悪化し、どうせ死ぬなら一発でも敵に打ち込んでから死にたいと願い、採用年齢ギリギリの9月に海軍予備生徒を志願したのです。海軍生活を終戦で終えて再び目白に戻りました。昭和22年ごろから学生バンドを編成し、輔仁会大会にジャーリングバンド(学生のアマチュアバンド)で出演したり、黒田一夫、池上利光などと占領軍キャンプ巡りを始め、受験よりもバンド生活に力を注いでいたが、どういう風の吹きまわしか東大農学部林学科に入学しました。授業は1年の1学期のみ、ノート、教科書は一冊も無し、但しジャズの道は皆勤という経過を経て昭和27年春大学を卒業してしまったのでした。
 当時はパルプ業界が大盛況で、私の林学科の仲間は飛ぶようにパルプ会社に内定。大学とは縁の薄い私は就職して恥をかくより東京近辺で就職したいと思い、ラジオ東京(今のTBS)に入社し音楽番組の制作担当、8年後から営業、ネットワーク、経営企画といろいろの部門を歩きました。その間TBSの諒解を得て昭和54年ごろから昔の仲間と音楽活動を再開し、宮仕えとピアノ弾きの二足のわらじをはきこなし、平成4年からはピアノ一途で今日に至っています。
 顧みれば、昭和こそがわが世代ですが、波乱多き戦前戦後を学習院で過ごし、高度成長からバブルまでを社会人として、またバブル破裂以後をピアノ弾きとして生きてきた、否、生きているわけです。これを支えてきたのは、一に健康、二に友情、三に開運ということだと思います。両親、家族、学習院関係者、友人たち、会社生活での緒 諸先輩や同僚たちに心から感謝を捧げたいと思っております。

 帝国ホテルのランデブーバーでピアノを弾いている渡辺さんをお訪ねした日は、一人でビールを飲みながら演奏を楽しんでいる外国の女性や、家族連れ、若い人のグループが、グランドピアノの周りをい囲んでいた。
 リクエスト中心の演奏は、映画音楽、ジャズ、ハワイアンのほか童謡のサービスまであって、アットホームな時が流れている。ひな祭、五月の節句の歌や、その季節に応じた歌など演奏もされるとかで、レパートリーは、おおよそ二千曲、「ミレニアムですから」 と渡辺さん。
 休憩なしの2時間40分の演奏はエンターティナーにこだわる心意気が伝わってくる。学習院を愛し、「当時のよき時代の学生気質を音楽を通して伝えたい」と云われ同窓生が来られたら「信州男児」や「大瀛の水」をアレンジして弾きますとおっしゃっていらっしやいます。
 ランデブーバーでのランデブーを楽しんでは如何でしょう。(T・Y)

プロフィール
大正15年(1926)生まれ
昭和8年(1933)学習院初等科入学
 〃 20年(1945)海軍予備生徒志願
 〃 23年(1948)学習院高等科卒業
 〃 27年(1952)東京大学農学部林学科卒業
 〃 28年(1953)ラジオ東京(T B S)入社
 〃 56年(1979)同社定年退職
 〃 〃     東通入社
平成4年(1992)同社退社
昭和60年(1985)〜現在
  帝国ホテルのバーで演奏
  (週5回:PM8:00〜PM10:40)
   水・日曜休み


違いを認め、違いを尊重する
特別専任教授 平野 次郎

 平成12年の4月から女子大学でお世話になっています。
 論より証拠の世界で社会人としての大半を生きてきた私にとって、とつぜん飛び込んだアカデミズムの世界は、証拠もさることながら論や説や学が大切な世界でありました。みずからの学のなさや、論の弱さに恥じ入ることしきりです。

 女子大の教師が学生たちに向かって「少年易老学難成」といったら、古臭いといわれるでしょうし、また「いのち短し恋せよ乙女」といったら、挑発してはいけませんとお叱りをうけるかもしれません。しかしあえて、朱子が詠んだ詩の一節と中山晋平が作曲して一世を風靡した歌の一節を学生たちに求めるのは、学ぶにしても、生きるにしても、人生は素晴らしいものだということを分かってもらいたいからです。
 ただし、双方を成就させなければならないという厳しい条件をつけておきましょう。
 情報が氾濫し、価値観の多様化がますます進んでいくのを見るとき、北アイルランドのベルファストで会ったノーベル平和賞受賞者のジョン・ヒューム氏のことばを思い出します。イングランド人とアイルランド人、プロテスタントとカトリックという民族と宗教の違いから長く対立していたふたつのグループの和解をなしとげたヒューム氏は、人間にとっていちばん大切なことは違いを認め、違いを尊重することだと熱っぽく語ったのでした。
 学生たちには、60億のひとびとが共にいきる地球で、人や国が違いを認め、違いを尊重し、お互いを大切にしていくことが21世紀の世界の基本であることを、私自身の個人的体験のエピソードの紹介も含めながら、楽しくそして分かりやすく教えていきたいと考 えています。


新刊紹介
著書・水産社会論
著者・若林良和(昭56法政)
     定価7000円+税
発行所 御茶の水書房

 食卓にのる魚の変化に気づいて食事をしておられる方はどの位なのでしょうか。200海里体制が敷かれて以来資源確保に加え国際協力の調査研究の成果を元とした著。地域漁業とソロモン諸島で合弁カツオ漁の現地化による効果を解明し、世界的視野に立ち、かつ生活に密着した密度の濃い貴重な研究と思われる。

著書・会社に行けなくなる程犬が好き
著者・田代省吾(昭43経)
     定価1000円+税
発行所 ポプラ社

 住宅事情でペットの飼えない家族が多いなか、小犬の出現にとまどいを感じ乍らも許可した父親の勇断に拍手を送ると共に、爽やかな清涼剤としてペットの役割をじっくりと考えて見たい。

著書・海江田信義の幕末維新
著者・東郷尚武(昭28政)
      定価710円+税
発行所 文藝春秋(文春新書)

 著者の母方の曾祖父にあたる海江田信義は、江戸城受け取りの責任者の大役を果たした後、貴族院議員・枢密顧問官等、明治政府の高官として天寿を完うしたが、桜田門外事件・安政の大獄などの犠牲者となった身内も多い。東郷平八郎元帥は父方の曾祖父であられる。明治維新と言う苛酷な時代を乗り越えた一族の生き方を纏めた歴史書としても興味を引く。

著書・哲学少女の歩いた道 「ニヒリズムからの脱出」
著者・池田晴代(本名小林晴代)(昭40哲)
     定価1800円+税
発行所 近代文芸社

 戦中に生まれ、父方の御本家で養育され封建制度の間に立たされた女性、即ち母親の苦労と自分の苦しみに振れ、それらを救ってくれた読書、特にニ−チェへの傾倒は強く、青春期にぶつかった命題、「何故に生きねばならないのか」を問いつめて行く事により己を確立した著者の気持をどれだけ理解出来るであろうか。

著書・英語イディオム逆引き辞典
著者・石川敏男(昭30英)
発行所 専修大学出版局

 一般のイディオム辞典は見出しがイディオムで説明が簡単な英語でつけられているが、本吉はその逆で簡単な英語sleepにどんなイディオムがあるかを示した辞典。