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第239回 月例会報告  『榎本武揚のシベリア横断旅行』 榎本隆允(昭31高)

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講師  榎本 隆允氏(えのもと たかみつ)
演題  「榎本武揚のシベリア横断旅行」
榎本武揚は幕臣であった27歳の時、5年間のオランダ留学の経験があった。語学の才があり数か国語を話したといわれるが、この時学んだ「国際法」がのちに役立つことになる。
幕府海軍副総裁であった33歳の時、戊辰戦争が勃発、蝦夷地での新政府樹立を目指し幕府艦隊を率いて官軍と戦うが、函館沖で遭難。その後函館五稜郭に立てこもって、最後まで戦うが、敗北、東京で囚われの身となる。2年後、官軍の総大将であった黒田清隆が彼の才を惜しみ釈放させ、明治7年駐露公使、翌年海軍中将に任命する。政府軍は薩摩出身が中心であり、最高位も少将どまりであったので、わずか2年前まで獄中にあった武揚のこの抜擢は全く異例のことであった。
当時 日本は樺太と千島の領有権を巡ってロシアと対立していた。明治7年武揚は特命全権公使としてロシアへ赴く。7月ヨーロッパ廻りでペテルブルグに着いた武揚は皇帝アレキサンドリア2世にその人柄を気に入られ、皇室・高官とも親密になり外交交渉をスムーズに進めることが出来た。この時結んだ樺太・千島交換条約は100%日本の意に沿ったものであり、この時北方四島は日本固有の領土となったのである。この頃ロシアはトルコと戦争状態にあり、ヨーロッパ廻りで帰国出来なくなった武揚は私的好奇心もあってシベリア横断での帰国を決意する。
こうして明治11年の7月から9月にかけて、ペテルブルグからウラジオストクまで66日間のシベリア横断旅行を行った。冬は台地も河川も凍結するため、橇で一直線に走ることが出来るが、彼がした夏場は馬車で道なき道を行く過酷なものであった。武揚は後に、嵐にもまれる船のほうがましだったと、語っている。彼はシベリアの地形、土壌、産業、農作物など多岐にわたる資料も収集している。
昭和10年、民俗学者金田一京助は、シベリア日記における民族学的記述は、現在でも少しも色あせていないと語っている。
私は武揚の曾孫だが、武揚の息子と黒田清隆の娘が、自分の祖父母にあたるので、五稜郭の戦いの両総大将の血を引くことになる。
のちに武揚は、{冒険は最良の先生なり}というオランダ語の言葉を残しているが、まさに武揚の人生こそ冒険そのものであったといえよう。

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